愛の種、発芽せず。

先日、私は44歳の誕生日を迎えました。

誕生日当日も、通常通り在宅していたのですが、その日はどうもブログを書く気が起こらずに、ずっとゴロゴロとしていました。

44歳独身です。ちなみに結婚経験はありません。当然子供もいません。

そして現在無職なわけですが、履歴書には、「配偶者なし」とか「扶養家族なし」とか書く欄があって、そこに書かなければいけません。

あれは表向きは、会社が所得税の計算や健康保険などの社会保険の手続きをする際に扶養家族の情報が必要になるからという理由なんでしょうけど、我々ぐらいになると、「44歳にもなって、(履歴書を書くぐらいだから)無職で、配偶者も扶養家族もいないというのは、社会通念上問題のある人間なのではないか」と思われているかもしれないと、思ってしまいます。

欧米の履歴書には、年齢すら書かないと聞きますが、このへんはどうなっているのでしょう。健康保険はともかく、欧米でも所得税はかかるだろうし。もしかしてその辺の仕組みが日本とは違うかもしれませんが。

44歳といえば、会社でもそれなりの地位で、(だから転職するにしても、「マネジメント経験」を求められる)結婚していて、中学生から高校生ぐらいの子供がいて…というロールモデルがあると思います。

今の20代の人とかは、そういうのにこだわらないかもしれませんが、我々の世代は、まだまだそういう呪縛にとらわれている世代です。

私の女性遍歴(?)

そんな私も、20代後半から30代前半にかけて、いわゆる「安定した職業」に就いた時期がありました。その時に、結婚しようと思ったらいくらでもできたかもしれません。しかし当時、結婚とかには全く興味がありませんでした。(今もありませんが)うちの親も、「結婚とかは別に焦ってしなくてもいい」という考えだったので、(私よりずっと「安定した職業」に就いている私の弟でも、結婚したのは30歳を過ぎてからでした)特に結婚の話をもってくることもなく、時間が過ぎていきました。

よく、高校生ぐらいになると、性へのめざめがあって、女の子と何とかしてお近づきになりたいという意識が働くらしいですが、私が通っていた高校が、仏教系の男子校だった(当時京都で大学に行こうと思ったら、私立の高校に進学しないと難しく、しかもほとんどが男子校と女子高に分かれていた)ので、そういうのが抑えらえたのかもしれません。

それが大学に入って爆発するのかといえばそうでもなく、大学に入ってしばらくして、テレビ東京の「ASAYAN」で「シャ乱Qボーカリストオーディション」というのがあって、そこから初代のモーニング娘。が結成されるのですが、その模様を追っかけていた程度でした。初代のモーニング娘。がいたおかげで、私の大学時代の精神状態が保たれていたといえば大げさかもしれませんが、その程度で済んでいました。就職してからは、モーニング娘。を追いかけることもなくなり、(だから私のハロプロの歴史には空白期間がある)恵まれた環境にあったにもかかわらず、全く異性関係にふれずに、ここまでやってきました。なので、女性問題に振り回されず、仏門でもやっていける自信があります。やらないけど(笑)

ここ数年、女性に対する熱が再燃しています。モーニング娘。(年代省略)もアンジュルムも好きだし、Perfumeも好きだし、最近では私立恵比寿中学とかBiSHとかも好きだし、女優さんとかにも好きな人はいっぱいいますが、そういう人達に対して、つながりたいとかそういう気持ちは一切ありません。安心安全な一傍観者です。一度社会勉強のために、乃木坂46の握手会に行ったことがありますが、「ふーん。」という感じでした。個人的には、画面の向こうで元気にしていてくれさえいれば、特に何も要望はありません。もはや超リアルな二次元キャラ状態です。ここに限らず、リアルな女性関係においても、ソーシャルディスタンスは保たれています。

自分でもなんでこうなったのかよくわかりません。でもこうなった以上、ある程度の年齢になれば、結婚して子供を産んで…という典型的なロールモデルには、徹底的に反抗してきたいと思っています。もう今更追随しても遅いし。

競争原理主義を変えるチャンス

という話をなぜしようかと思ったかというと、最近こういうたぐいの話をよく聞くようになったからです。

この記事内で言及されている「男性社会から降りて障害者になった。」というのが何を意味するのか分からないけど、(「障害者になったので男性社会から降りた」なら分かる。自発的に「障害者」になって障害者として認定されるのか?それでこんな長い文章が書けるのか?)そういう筆者は「男性社会」から降りても楽にはならなかったらしい。むしろ障害者になって不便なことが多くなったのではなかろうか。

それに対して、シロクマさんは、それは男性に限った話ではなく、「競争社会」や「上昇志向」から降りることが難しくなったということではないかとする。資本主義社会というのはそういう社会なので、それに合わせて生きていける人は生き残れるけど、そうでない人は、本来なら福祉的な施策のもと、保護されるべきなんだろうけど、そういう対象である障害者であっても、満足を得られるものではないということらしい。

そこにやってきた今回のコロナ禍は、こういう競争原理主義を変える一つのチャンスであるかもしれない。欧米では、満足に医療が受けられない低所得者層に、新型コロナ感染者が多く発生していると聞くけど、医療(というか主に保険制度)が発達している日本では、低所得者層に限らず、芸能人だろうが大企業の社長だろうが、亡くなる人は亡くなる。いくら人生において競争に勝ち抜いた人であっても、ウイルスは容赦しない。こういう現実を目の当たりにすると、競争社会や上昇志向、または人生のロールモデルに縛られることに、むなしさを感じる人が多くなるのではないだろうか。